2025.08.30
小松、「考える力」なるものを考える

こんにちは。公務員科学科長の小松です。しかし暑いですね。

チャリ通のわずかな時間だけで日焼けしている毎日です。

昭和の生まれとしてはどうにも地球温暖化を意識する毎日が続いています。

今の子供たちが私と同じくらいの歳になる頃には・・・

「お父さんが若い頃は夏は40度くらいしかなく、何とか外にも出られたんだけどね。まさか「超猛暑日」なんていう気象用語が出来る日が来るとは・・・」なんて言っているかもしれません。

私は地理の授業は持っていませんが、学生によく「日本は温暖湿潤気候である。とかもうやめたら良いのにね。どう見ても亜熱帯でしょ今や。ゲリラ豪雨じゃなくて、スコールでしょ。春と秋なんか1週間くらいしかないんじゃないの??」なんて話をしています。

やはり止めようが無いんですかね?環境問題を題材としたディザスター映画をこれまでたくさん見てきましたけど(地球規模のすげ~災害が起きて急に世界が協力して解決的な)、あんなに上手くは行かないですよね。私の寿命が尽きるその時まで大好きな秋は存在するのでしょうか??

さてさて、まもなく9月ですね。そう、公務員試験が始まります。当校では公務員ビジネス科の2年制と公務員専攻科の学生が受験対象ということになります。公務員ビジネス科の1年生はというとこの秋から冬にかけてが勝負で、来年の春までにしっかりと基礎固めをしなければなりません。どっちも遊んでいる時間は無いのです!

さてさて、さてさてそんなこんなで本日のお題「考える力」についてです。

私は今年49歳(大原教員生活20数年)になりましたが、教師というのはオモロいもので、当たり前ですがこちらは歳を重ねるのに目の前の学生はいつまでも18歳そこそこという不変の現実に向き合い、会話等々をアジャストしなければなりません。

ま、だからといって彼らの推しのアイドルなんかを覚えようとは思わないのですが、「今の」彼らの考え方みたいなものは理解したいと思うのです。でもね、、、今年ホントに「分かんない」です。教師という職業に就いている人で自分に対して使うのはたぶん日本で私が最初ではないかと想像しつつ・・・

「ついに、俺もオワコンかな??」

と日々残念な感情を抱きつつ、エレベーターに乗った際には、ドアの締まり際に「リク〇ートエージェント」って小声の幻聴が聞こえてきます ^^;

ふらっと学校に寄ってくれた卒業生ともよくそんな話をします。

「先生毎年「辞める、辞める」言うてるやん。でも、次来た時もいるんでしょ^^?」

うん。多分そうなんだろうけどね・・・。

このどうにも「分かんない」部分の「正体」は分かっているんです。

一言で言えば「想像力の欠如」。

「十把一絡げ」で物申すつもりはないですが、最近巷でよく聞く「今だけ、金だけ、自分だけ」なんかも根元は同じことを誰かが考えて生んだ言葉であり、風潮なんだと思います。

僕はですね、ずっと先生という職業に憧れてきましたし、今も天職だと思っています。

僕がイメージし、ここで体現したいなと思っている理想の先生像は「僕が愛した先生方」そのものです。

・中学生当時、部活動ばかりでまるで勉強せず、評定平均もゴミレベルだったアホな中3の私を夏休み返上で勉強させ、近所のそこそこの公立高校に合格させてくれた西村先生、薮内先生。

・高校から始めた陸上部でおいらの能力を見出し、県を代表するレベルまで育ててくれた中山先生。

・当時「国立大学なんか行けるか!」という底辺偏差値だった私を国立大学に合格させてくれた予備校の高村先生、そして歴史の恩師入野先生。

私が愛した先生全員に共通するのは、「まっすぐ向き合い、時にきっつい言葉で刺す」という点です。私が精神的に「ドM」であることも関係するとは思いますが、とにかく愛がある厳しさを感じました。

先生方見てますか??あのポンコツは先生になりましたよ^^

今回決してスピリチュアルな話がしたいわけではないですが、私は「言霊」ってやつを心底信じています。

文字ではなく、その人の口から出た言葉だからこそ、響き、刺さる。と信じています。

ああ

持論ですが、「公務員は誰でもなれます。そしてその合格のために必要な勉強も教材さえあれば自分で出来ます。」

それを独力で出来ない子達にこそ大原があります。学校の宣伝がしたいわけではありません。

高等教育を受けるのは決して義務じゃない、ってことを言いたいのです。

自分で出来ないからこそ来たのに、何かになりたいからこそ親に頼んで、何なら当時の私と同じように奨学金を借りて松山で一人暮らしをしながら学校に通っているのに、それでも前を向かない、「今しか、自分しか見ようとしない若者」の割合が急速に増えたこと。そして、過去の教え子達に伝えてきた、私を変えてくれた恩師の言葉や私自身の経験(ほとんど失敗談)から生まれた言葉がいまいち伝わっていない(主語が自分に置き換わっていない)ようにこの頃強く感じます。

傾向として、私の目の前にいる若者はとにかく「答え」を求めます。私はそこに至る過程と、その後考えられる結果を考えてほしいのですが・・・(教えている日本史で例えれば、「本能寺の変ー織田信長-明智光秀」なんて覚えてもしょうがないですよ。歴史は過程と結果とあとは想像力っす)。上手く言葉にできないかもしれませんが、このとにかくただただ答えを求めて「その場さえ乗り切れればよい」という刹那的な考えが多数を占めているのかもしれません。

以前どこかの記事で見ましたが、昭和の人間が大切だと思っているのは「自らで考える力」で、今の若者に今後必要になって来るのは「(AIなどに)考えさせる力」なのなのだそうです。

確かに通称チャッピーは便利で賢いです。今後もっともっと欠かせないものになるのでしょう。

でもね、私は仕事でも私生活でもAIから学ぼうとはしません。使い方はそこそこ知っていますし、使ったつもりが無くても恩恵を毎日受けていることも分かっています。でも使いません。この仕事をしている限りは。

自分自身を主語として結果を、過程を「考えさせる」。別の言い方をすれば「問題発見能力」とか「問題解決能力」とかいう場合もあるでしょう。私は「自分で考えることもできない、しない公務員は要らない」と考えています。

「そんなのはスマホに聞けば良い」。時代的には「その通りです」としか言えません。でもここは公務員を育てる学校です。

AIで災害や犯罪が無くなるなら、AIで人口問題が解決し、消滅可能性都市が日本から無くなるなら公務員なんて人である必要ないでしょ。シンギュラリティがとっとと起きて、我々人がAIに管理される世界ですか、SFですやん^^;

公務員は「問題を解決するために、そもそも問題が起きないように、住民が考えもしない何かを考え続けなければならない職業」です。

冒頭に書いた文章は「最近暑すぎるんじゃ!」という事実に関して私が考えたことです。AIには書けませんよ。こんなアホな文章。

それが個性であり、偉そうに言えばその強烈な個性で目の前の若者の道標となれるかどうかが教師の存在価値かなと。

私自身の頭で考えて、考えて、考えた言葉を学生に伝え、伝え続け・・・それでも学生の変化を促せなければ、

「あかん。無理や。」って心の底から諦めてしまったら、その時は大好きな教師を引退します。